鏡の向こうの「私」〜11月の備忘録〜

 

 

11月が終わる。

今月はとても長いようで短く感じた1ヶ月だったし、私としてはとても苦しんだ1ヶ月だった。

 

月の初め頃から段々と気持ちが落ち込むようになり、それまで少しの間落ち着いていた過食行為が再び勢いを増した。最初は「よくある気分の波で、また戻るだろう」と考えていたけど、状態は良くなるどころか悪化していくばかりで、やがて予定のない日は部屋で何も出来ずに横になり続けるようになった。

何もしたくなくて、動けなくて、それでも何かをしたいし、しなければならない事もあった。その矛盾に苦しんで、横になりながらひたすら泣いた。ストレスで吸っていた煙草の量が増えた。前職を退職してから2ヶ月半、遂に退職時よりもひどい状態に陥った。

 

誰と何を話していても心はどこか遠いところへ行ってしまったようで、大袈裟な話ではなく本当に「動けない」。熱があるわけでもなんでもないのに、ただただ「動けない」。

そして、その状況から誰かに助けて貰いたくて、誰かに「辛い」と言いたくて、それなのに私は誰かに言うことはおろか、SNSに投稿する事すらも躊躇った。言ってはいけない気がした。誰もが頑張っていて、辛いのはみんな同じだから、こんな風に横になって時間を浪費している人間がそんな事を言っていい権利などある筈がないと、そう考えていた。私の吐く毒で、誰かの気分を害したくないとも、そう思っていた。

 

やがて、8月以降ずっと行っていなかったメンタルクリニックを久し振りに訪れる。

うつ病と診断された当時、私はなんとなくだが抗うつ薬に該当する薬を飲みたくなくて、その旨を伝えると“経過次第”という話になったのだが、私はその日ここまで述べたような状況を主治医に話し、相談の結果やはり抗うつ薬を始めようという事になった。

 

そして薬を初めて飲んだ次の日、私はいつもよりも格段に早く布団から起き上がれて、久し振りに趣味であるイラストを描く事が出来て、珍しくお風呂へ入る事を躊躇わなかった。入浴後には髪を乾かせたし、その後に布団に入らず部屋で横になる事もなかった。

効果は人ぞれぞれだと思うが、薬のすごさをここまで感じたのは初めてだったと思う。夕飯の時に母親に「昨日までと全然違うね」と言われた事を鮮明におぼえていて、ああやっぱり家族が見ても明らかな程に崩れていたのだな、と感じた。

 

霧がかっていた思考が晴れていくように、ようやく色々な事を前向きな気持ちを含めて考えられるようになってきている。こうしてブログを書いているのも、体調が良くなってきている証拠だ。

だからもう少しだけ、この最近で考えた事を書いてみようと思う。

 

 

以前、私は世間の思う「良い子」でなければならないと考え続けていたと書いた。

 

hrmymk.hatenablog.com

 

最近になって、こうも思う。

私は世間にとっての「良い子」でありたいのと同時に、私と関係性を持つ周囲の人々全員にとっての「良い子」でありたがっているのだ。

親は勿論、友人、知人、色んな人に。

その人たちにとっての理想の「私」を持つ──私の対人面はそんな形をしているし、実際社会にだって、同じようにそうならなければならない状況が山ほど転がっているだろう。

 

勿論、それらの「私」の中には本来の私そのままの思考で出てきた「私」も含まれる。それが適して落ち着いている環境もあるし、それは“私”にとっても居心地がいい。

ただ、明らかに本来の“私”の上に膜を張って、その人の理想に叶った「私」を演じる、そんな事も起こっている。学校や会社などの社会でならよくある事だろうというのは今さっき述べたばかりだけど、友人関係でもそうだというと、なかなかに苦しい。

 

何故、「私」なのだろう。

おそらく、一度合わせてしまった「私」がえらく相手に気に入られてしまい、二度と“私”を出せなくなってしまったからじゃないだろうか。

その人に好かれる瞬間を知ってしまったが故に、ありとあらゆる嫌われる可能性に恐怖して、もう“私”では愛されないと思ってしまう。だからなるべくその人にとっての「良い子」な「私」になろうと努めてゆく。

 

自己肯定感が低い為に「相手に対して自ら出来る全ての犠牲を払って関係性を強く持とう」と、少なくとも私はしてしまう。それくらいしないと誰かに愛されはしないと、心のどこかで信じている節があるからだ。

 

だけど、本当にそうなのだろうか。

どう考えてもその信条は自分に多大な負担をかけているし、数ある友情関係がそれ程までして続けていきたいものかと言われれば、決して全てがそうではない。

もしかすると“私”を相手にしても大切な友人達であれば変わらず接してくれるのかもしれないし、ただ単に、私が考え過ぎているだけなのかもしれない。

 

思考はぐるぐると回ってゆく。

明日には、一時間後には、変わっているかもしれない。

それでも何となく今は、もっと気楽に生きれる「“私”」の姿があるのではないかと、そう思えるようになっている。まだ手探りで、未知数だけれど、自分の内側の小さな欠片から一つずつ許してあげられるようになれれば良いと、そう考えられるようになっている。

 

 

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