私を変えるということ

 

小さな頃から自分のことが嫌いだった私は、たびたびお風呂の中で理想の「私」を描いては、「このお風呂から上がったらその理想体になるんだ」と誓っていた。

そんな癖が出来てから何年が経っただろう。残念ながら未だにその誓いが叶ったことはない。

 

別に、何も変わらなかったわけではなかった。

たとえば体重は一番重かった時よりも10キロほど落ちたし、それに合わせて体型も変わった。あの時に理想としたスリムな女性の姿には未だ程遠いが、それでも過去と比べて変わったところだといえるだろう。

しかし、それだけでは不十分なのだ。

もっと綺麗な女性になりたいし、もっと周囲に正しく気を配れる優しい人になりたいし、もっと博識で、もっと英語も喋れるようになりたくて、もっと、もっともっともっと。

 

……ここまでで察しがつくと思うが、私の描く理想の私とは、ありとあらゆる事に関して完璧な、最早別人に近い存在である。

イメージをするだけならタダだと思うが、この理想と現実の差異に苦しみ始めてしまうとタチが悪い。「どうしてこう出来ないんだ」「また失敗してしまった」と自己嫌悪が強くなり、「こんな自分じゃなくてもっとこうなれれば」と再び理想の自分を生み出しては、ぐるぐると同じことを繰り返してゆく。

一応私にとって浴室で理想の自分を描く行為はそれまでの自己嫌悪のリセットであり、新たな自分の誕生をイメージしているのだが、結果は既に述べたように抜け出せない悪循環の最中である。

 

自分を変えるということはとても難しい。

特に体型や知識の面ではなく、思考を変えることに関してはある程度の長い時間を消費することだろう。ダイエットに励んだり勉強を続けたりすれば体つきが変化したりそれ相応の知識が身についたりするだろうが、自分の性格を変えたい場合にはその実感を感じにくい。

また、必要な時間は絶対に一朝一夕のものではない。それまで美しい薔薇園であった場所を一夜にして木々の生い茂る森に変えることが不可能なように、私達は変化に多大な時間がかかることを覚悟しなければならないし、努力しなければならないだろう。

 

私は今も昔も、自分が嫌いだ。

できることなら今すぐにでも自己嫌悪に陥ってばかりの自分を変えたいが、私達はどうやら確実な一歩一歩を進んでいかなければならないようである。

その一歩とはたとえば認知行動療法などだろうか。意識して物事への捉え方を変えてみる訓練を行うことによって思考の軌道を修正していくことだが、これぞまさに地道な努力が必要だ。

 

ただ、道は遠いけれど、変わらなければいけないタイムリミットが存在するわけでもない。何かに急かされて「変わらなければならない」と思っているなら、急かしているのは自分自身に違いない。

ゆっくりで良い。それに、「嫌い」から「そうでもない」になれたなら、この苦しみも今よりかは楽なものになるだろう。その分だけ“変われている”のだから、素晴らしいことではないだろうか。

 

私はいつか、風呂場の鏡で自分自身に問い掛けることをやめたい。

その日その時の私を殺すことは、きっと不可能なのだから。

明日、もしかしたら一歩前へ歩けるかもしれない可能性に期待はせず夢想するくらいで、ゆっくり身体を暖めて休みたい。