ギブアンドテイクへの依存

 

 

世の中には必要なギブアンドテイクとそうでないギブアンドテイクがあると思う。

前者はたとえば所謂形式的なもので、お返しをしなければならないものとかだ。新年の挨拶などがこういうところに入るだろうか。欠かしてしまうとマナー違反と捉えられかねない。

では後者はというと勿論前者に当てはまらないもの全てであり、これは人によってその判断が異なるところだろうが、私にとってはバレンタインとホワイトデーの関係なども此処に入ると思う。


この必要でないギブアンドテイクの基準はというと、私の場合「テイクがなかった場合に個人的な怒り或いは恨みが発生する可能性のあるもの」であり、つまり「なんで返してくれなかったの」と個人的感情に支配される事である。それはマナー違反とは異なる発生源から生まれる感情であり、私達はしばしばその思考に囚われがちになる。


ギブアンドテイク、というのは何もプレゼントだけを指すわけではない。

好意、優しさ、etc……それら形にならないものも与える事が出来るが故に、返される事を求めてしまう。見返りを打算してしまうのは人間の想像力からして仕方がないのかもしれないが、私はそこから見返りを「期待」してしまえば最後だと思う。

「優しくしてあげたのに」「こんなにも好きなのに」という感情は既にこちらがギブした後、「期待」したテイクがなかった場合に生まれるものであるが、そもそもギブした相手がそれを求めていたかどうかを考えるべきだ。ギブする側が勝手に好意や優しさを差し出し、それに対して必ず同じ程度の好意や優しさが返ってきてくれるかといえば、それはギブする側が過剰に「期待」しているだけなので確証はないし、テイクする側は感謝として返してもそれ以上を行う必要は無い。何故ならそれは向こうが“勝手に”差し出しているだけだからである。


では、必要のないギブアンドテイクの関係性は悪なのか。

私は「ノー」だと思う。矛盾しているように見えるかもしれないが、私が悪とするのはギブする側が過剰に「期待」し、結果としてギブアンドテイクに依存してしまう事のみである。


そもそも、私達は自らの意思や判断で優しさなどを相手に提供する。提供された優しさが適当な質、量であった場合、大体の相手はそれを喜んで受け取り、遅かれ早かれ、或いは積み重ねによって、いつしか「お返しをしたい」と自然に思うようになる。これがなければなんと殺風景で恐ろしい人間関係が蔓延る事だろう。たとえ自然の優しさだろうが故意的な優しさだろうが、人間関係はそれを互いに提供し合う事で良質なものを保つ事が出来る。

しかしそれに依存し、多くのテイクを期待してギブをし始めると、そのバランスが崩れてゆく。「あんなに優しくしてあげたのに裏切られた」の「裏切られた」はかなりギブした側の歪んだ認知によって生まれた解釈だ。そもそもテイクする側はそこまでの優しさを必要としていなかったのかもしれない。

 

 

話は変わるが、ギブアンドテイクとまったく異なる言葉にアガペーというものがある。

これは見返りを求めない愛の事であり、キリスト教における神の与える無償の愛、また不変の愛がこれにあたる。


おそらく理想としては誰もがアガペーを目指すべきだ。理想としては。

全人類が他者にアガペーであればテイクを「期待」する必要はなく、誰にでも平等に愛が与えられる。勿論のことながら裏切られる心配もない。何故ならアガペーは“見返りを求めない”からである。


ただ、全人類がそう易々とアガペーの思考に到れるかといえば難しいところだ。

やはり私達は「期待」する。バレンタインデーにチョコを渡した本命からはホワイトデーにお返しが欲しい。そんな風に、「期待」する。

世の中はギブアンドテイクで成り立っているという言葉を聞いた事がある気がするが、満更間違ってもいないんじゃないかと、そう思う。


ただ、せめてその関係に依存してしまわないように。個人のエゴを歪めて裏切りを作り上げてしまわないように、気を付けていきたい。