見世物社会

 

檻とは一種の箱であり、箱はあらゆる形を成してこの社会に平然と存在している。それはひとつふたつの話じゃない。そして、私たちはその全てを指摘しようとした時、どうしても見逃してしまうものが出てくる筈だ。

 

12月26日に放送されたTBS番組「水曜日のダウンタウン」内の企画で、東京の有名遊園地「としまえん」にて芸人クロちゃんを檻の中に入れ、一般公開するというイベントが行われた。

これは番組内で罰ゲーム(ペナルティ)として行われたものであったが、クロちゃんを一目見たいと市民が殺到し、檻の周辺は混乱に陥った。近隣住民からの苦情も入り警察が出動すると、協議の結果、午前2時頃に同イベントは中止された。

 

この企画の予告を聞いた時、なんて恐ろしい企画だと、そう感じた。

一人の人間を檻の中に閉じ込め、自由を剥奪し、人々の見世物として笑いを取ろうというのである。それはその一定期間、彼を人間として扱わないということを示していることと同義だった。

 

しかし私がこの一連のニュースを聞いて最も恐ろしいと感じたのは企画のひとつとして人間を檻に閉じこめることが行われたことではない。閉じ込められた人間見たさに深夜にも関わらず大量の人々が殺到したことである。

暗闇の中でスマートフォンの光が連なり、フラッシュが絶え間なく輝く。彼らは物珍しさにその場を訪れ、面白がって檻に閉じこめられた人間という名の動物を見学する。

その様子だけでも到底、良い気分で見ていられるものではない。

 

だが、このようなことは決してあの遊園地だけで行われているわけではない。

最初に述べたように、檻とも呼べる箱は私たちの生活する世界のあらゆる場所に存在している。見世物小屋は今日も観客を笑わしている。意図せず、無意識に、学校で、会社で、様々な場所で。

 

たとえば私は中学一年生の時、初めての音楽のテストで校歌を歌った。

私は本来地の声が低く、一般的な女性の声とは離れた声質をしているのだが、当時は歌となると話が違った。地の声からかけ離れたソプラノの音域で校歌を歌い、特に問題はなかった。私にとっては。

 

しかし後日、林間合宿の時だ。

自由時間のある時私はクラスメイトの何人かに呼び止められ、こう言われた。

「校歌を歌って!」と。

今考えれば適当な理由をつけて断れば良かったのだろうが、当時の私にそのような知恵はなかった。何故歌って欲しいとお願いされるのかも分からないまま、私はクラスメイトの彼女たちの言う通りテストの時と同じく校歌を歌ってみせた。

 

何度も言うが、適当な理由をつけて断ればよかった。

校歌を歌っている最中から聞こえてくるのは笑い声。歌い終われば今度は「上手いねえ!」といった準備された感想が爆笑の渦の中で聞こえてくる。

彼女らが私にお願いをした意味を、私はその瞬間にようやく理解するに至った。

要するに彼女らは私の普段の声と歌声の違いが面白おかしく、或いはその歌声が変であることが面白くてたまらなく、私にそんなお願いをしてきたのだ。

 

私はあれ以降、まともに高音を歌えなくなった。高い音を喉から出す度にあの時の記憶が顔を出すのである。これが治るだろうという道は、今のところないような気がする。

私はあの瞬間、見世物小屋パフォーマーだった。誰もが面白がって私を取り囲んで眺めていて、私は逃れられない檻の中にいた。

今もおそらく、そうした檻の中にいる人々がいることだろう。そこにも、かしこにも、もしかしたら私が気付いていないところにも。

 

今回のとしまえんでの事件は番組内の「モンスターハウス」という企画から起こったものらしいが、本当のモンスターとは誰なのだろうか。

そんなことをふと、思ったりしている。