「良い子」でなくなった日

 

 

昔から、世間の求める「良い子」でなければいけないと思っていた。

小学生、中学生、高校生と問題なく卒業し、四年制大学で大学生を修了して、社会人になる。ある程度年が経てば結婚をして子どもを作り、幸せな家庭を築いてゆく。

それが世間の求める「良い子」であり、私のイメージする「良い子」であった。

 

しかし、それは決して「当たり前」ではない。

中卒で働き始める人もいれば、高校卒業後は専門学校に入学して専門職を目指す人もいる。大学を中退して自らの夢を追う人もいるし、生涯結婚を必要としない人もいる。

人生は十人十色であり、正解はない。本来ならば他人の人生を最高だ失敗だと評価する事は出来ない筈だ。しかしながら社会がそれを出来てしまうのは、やはりそこに「世間」という巨大ながら曖昧なものが存在するからなのだろう。

 

「世間」は、評価する。

その人の言動、思考、生き方を、成功や失敗、普通か異常というように評価していく。それはさながらマルバツ問題だ。「世間」に合っているかどうか、それが「世間」のいう普通かどうか、回答は二つしかない。そして「世間」がバツをあげた時、対象者は“普通”ではなくなってしまう。当然、それは「良い子」ではない。

 

私の身近には昔から「良い子」と呼ばれる人と「良い子」とは呼ばれない人がいて、その両極端な評価が私の中で「良い子」の基準を定めた。私もまた「世間」に感化された一人だったのかもしれない。「良い子」は多くの人から褒められて、優しい噂ばかりを聴いた。私も、そうなりたかった。

 

幸運なことに地元の小学校で成績の良かった小さな私は「良い子」として扱われ、親族の間で持て囃された。褒められるという事は単純に嬉しい。だから私は「良い子」であり続けようとした。実のところ学業を除いた学校生活は悲惨そのものだったのだが、親の求める第一志望の私立中学に合格し、六年間で底辺からまあまあの成績まで学力を伸ばすと、永久F判定だった第一志望の私立大学に合格した。

家族は喜んでくれた。私が知る限りの周囲の人々も褒めてくれた。「世間」が私を許してくれている、そう感じた。過去の経験から自己肯定感を地の底まで削り切った私にとって、その感覚は自分のすべてだった。

 

ところで私はたった今述べた通り自己肯定感がまるでなく、他者に求められ肯定される事で自分を保っている人間なのだが、この生き方が根本から間違っている事に気付かされたのがつい最近の事である。

大学を無事に卒業した私は当然のように社会人になった。誰かに貢献する事でしか自分の存在意義は表れないと信じて疑わなかった私が選んだ職業は、介護士だった。やりたい事よりもやらなければいけない事が先行し、その先行した使命が勝手に自分のやりたい事として口から出ていた。おまけに、人員不足に苦しむ福祉業界での就活はさほど難しいものではない。説明会や面接の度に動悸や吐き気、腹痛に苦しんでいた私は一刻も早く就活戦争から離脱したかった。そんな事もあって、比較的面接で好印象を持っていたとある会社から内定が出ると、私はすぐに就活を終えた。

無事に社会人になれた私は昔から描いていた「良い子」のままでい続ける事に成功し、更には「優しい子」として評価された。

 

しかし、私は入社後5ヶ月経った後、うつ病にかかってその会社を退職する事となる。

仕事内容、その他交友関係の悩み、家庭問題など、様々な精神的ストレスが溜まりに溜まった結果だった。

 

私の献身には、限界があるらしかった。

私はどうやら、私自身も大切にしてあげて欲しいらしかった。

信じられないかもしれないが、その事実を私はその時、初めて知った。衝撃的だったし、何より申し訳がなかった。

 

私は何に申し訳がなかったのか。

自らの存在意義に等しい他者への献身に限界を感じてしまった事?イエス

精神的に崩れ落ちてしまった事?イエス

しかし、何より申し訳がなかったのは、私が「良い子」でなくなった事だった。

 

新卒で入社した会社を5ヶ月で辞めたという事実は、「世間」から見ればとてもだらしがない。勿論そんな事はないと思ってくれる人もいるだろうし、私自身なぜそれだけでやる気のない人間だのみっともないだの評価されなければならないのかと、反発心を得ないわけでもない。

ただ、「世間」はそこにある。誰が振り払えるわけでもなく、ただそこに存在している。そして「世間」が存在する限り、私達は評価されてしまうのだ。

 

「世間」曰く、私は普通ではないらしい。

両親は親戚に事実を伝えるのを躊躇っているし、既に「知らせない」という選択を取った相手もいる。

親友たちには話せたが、付き合いの少ない人々に言うのはとても怖い。

Twitterの大学関係のアカウントになど、とても呟ける雰囲気ではない。

この事実を知っている人間の誰がどう思っているかなど、考えるだけで身体が強ばる。

つまり私には今、「世間」が恐ろしい。

 

「世間」のイメージする“普通”とは何なのだろう。一体どこから来たものなのだろう。

その道を外れた今、私はこれまで歩いてきた道を振り返る。

この道は私だけのものの筈なのに、先など分かる筈もないのに、「世間」はその道の先を勝手に描いているのだろうか。そしてそれが、“普通”なのだろうか。

 

会社を辞めた後、祖母に話す事を迷っている父親に「◯◯もまともじゃなくなって〜、」と言われた事を、毎日のように思い出す。

まとも、とは何なのだろう。

少なくともやはり私は、「良い子」ではないようだった。

 

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