私は「ものさし」を知らない

 

 

人の限界はそれぞれ違う。

私は学生時代に毎年行われる体力テストの1000メートル走が大嫌いで、クラスの大半がゴールしている状況でもまだトラックを半周以上残していた。息は絶え絶えで、足は本当に走っているのかどうかも曖昧で、ゴールした時には本当に倒れるかと思った。毎年ビリなわけではなかったが、確実にクラスのワースト3位以内には収まっていたと思う。

つまり私は体力が絶望的になくて、クラスメイト達よりも早々に限界を迎えてしまうのだ。それはとても目に見えて分かりやすい限界だろう。何故なら1000メートルを走り切った私はそれはそれは辛い顔をして、息は高く短く繰り返されているのだから。

 

ただ、心の限界はどうだろう。

そもそも何処にあるのかも分からない曖昧なものだ。心は誰の目にも見えない。まさかみんなで心を取り出して1000メートルを走らせるわけにもいかないし、体重も身長も測れない。

 

そして何より厄介なのが、

心は嘘をつける器官である事だ。

 

身体は毎日沢山のお菓子を食べれば太るし、先ほどの私の過去のように走らせればどのくらいで限界が来るかが分かる。

 

しかし、心はそう簡単には裸になってくれない。どれだけつらい思いをしても、逆にどれだけ嬉しい事があったとしても、平然を装う事が出来る(ただし後者はとても難しいし、あまりする必要もない)。「大丈夫?」という言葉に「大丈夫だよ」と返し、返し方次第では相手を納得させることが出来てしまう。

その人の表情や言動がすべて真実であるわけがなく、だからこそ人間は面白い、と言う人もいる。確かに心が嘘をつけなければ多くの映画や本は生まれなかっただろうし、この社会もあっという間に崩壊するか、あるいはまったく別の形に生まれ変わるだろう。今この瞬間に全人類の心が嘘をつけなくなってしまったら、ありとあらゆるところで人間関係がたちまち壊れてしまうに違いない。勿論、私もそうなる。明日には戦争が起こってしまうんじゃないだろうか。

 

そういう意味では心がこういう形で良かった、と思えるのかもしれない。

でも、だからこそなのだ。

心がそういう仕組みであるからこそ、私達は相手の心の限界を知ることが出来ないでいる。そして、勘違いしてしまう。

 

決して見えるものではないけれど、おそらく心は身体のように人それぞれ違う形をしていて、人それぞれに出来ることと出来ないことがある。泣けると噂の恋愛映画の良さが分からないと話す人もいるし、人の多い飲み会が嫌いな人もいる。私達は日々その形の歪みに上手い嘘を重ねて、世間と同じであろうとする。

だけど嘘は嘘であって、本物にはならない。

たとえ大多数の人が耐えきれる悲しさでも、それで崩壊してしまう心を持っている人達がいる。同じ悲しみを心のコップに注いでも、泳げる人がいる一方でそれだけで溺れてしまう人がいる。その事実を訴えなければ、誰にも気付かれることはない。あるいはもし訴えたとしても、「その気持ち分かるよ」とか「みんなも同じだよ」とか、そういう言葉を返されるかもしれない。

 

だから私はこう思う。

一つとして同じ形のない心に注いだ時点で、たとえそれが同じ悲しみだとしても、“同じ”ものは一切ない。

つまり、誰の気持ちも本当の意味で共感することは出来ない。

 

そうといっても、私は別に共感して欲しいわけではないのだと思う。ただ、私たちの中に漠然と存在してしまった平均という名の「ものさし」に任せて心を測ったとしても、それはかえって誰かを傷つけることになるかもしれない。そんな事を思っている。

 

私は私の「ものさし」を知らない。

何故なら私と誰かは、まったく別の人だから。

身体も違う、生きてきた人生も違う、そんな人々に心の限界は同じだと、心の持ちようは同じだと、そんな不思議なことが起こるはずがない。

 

だけど今日も世間の「ものさし」は、誰かの密かなプレッシャーとなり、誰かの心を壊しているのだろう。

私もまた、その圧にうなされている。