セーラー戦士になりたくて

 

 

子どもが描く将来の夢が好きだ。

彼らの夢はとてつもなく曖昧で、現実と非現実が混ざり合う。その頃からの夢を大人になって叶える人もいれば、中学生頃にはすっかり忘れてしまう人もいる。子どもの頃の夢というのは、そういうものだ。

 

かくいう私の小さな頃の将来の夢といえば、占い師だった。別にその頃にハマっていた遊びが占いだったわけではない。ただなんとなく、アニメやゲームに登場する占い師のビジュアルが好きだったのかもしれない。

ただ、私がその頃に一番なりたかったのは占い師でも何でもなく、「セーラー戦士」だった。

 

たまに女性同士の会話で、特にアニメなどが好きな仲間たちの間ではこういう言葉が飛び交う。

おジャ魔女世代」「プリキュア世代」「カードキャプターさくら世代」等々。

これが男性であれば仮面ライダー戦隊シリーズで表現されるのだろうか。私は仮面ライダーアギトアバレンジャーまでなら観ていた気がするが、それらの記憶はとても薄い。

ただ、それに反して女児向けアニメへの熱意は凄まじかった。リアルタイムで観ていたのはふたりはプリキュアSplash Starまでで、おジャ魔女どれみ明日のナージャ辺りがピークだった。だったのだが。

そんな私は、おジャ魔女世代に生きる「セーラームーンヲタク」だった。

 

なぜ私のステータスがそうなってしまったのか、というのには理由がある。

私の住む自宅のすぐ近くには昔からTSUTAYAがあって、毎週1本のビデオをレンタルしてもらうのが幼い頃の習慣であり楽しみだった。

しかし、レンタルビデオというものは新作や準新作が旧作に比べて意外と高い。そうなれば必然的に私が借りて貰うビデオは当日放映していた作品たちよりも、その一世代前あたりの作品になっていく。神風怪盗ジャンヌスーパードール★リカちゃんあたりもその関係でよく観ていたが、カードキャプターさくらは途中までしか観なかった。何故だろう。未だに理由がはっきりとしていない。

とにかく、色んな作品を鑑賞していった末に私が辿り着いた至高の作品が、美少女戦士セーラームーンだった。

 

私は何度も無印からセーラースターズまでを繰り返してレンタルしてもらい、毎日をセーラー戦士たちと共に過ごしていた。当時の大好きなキャラクターは水野亜美ことセーラーマーキュリーで、彼女を目指して小学生になったら勉強を頑張ろうと思っていた。本気で。更にいえばセーラーマーズのような強さにも憧れたし、セーラージュピターのような乙女心は輝いて見えた。セーラーヴィーナスのような美人になりたかったし、セーラームーンのような恋をしてみたかった。これも本気で。

 

とにもかくにも私は幼稚園時代のすべてをセーラー戦士一色で染め上げ、そのブームは小学校低学年あたりまで続いた。

2003年に放映された実写ドラマも観ていたし、初めてこの目で観た舞台はセーラームーンのミュージカルだった。ちなみに私はこの時にどうしてもセーラームーンのコスチュームが欲しくて、珍しく親に頼んで泣きじゃくった。この記憶は未だに根強いし、結果的に買ってもらえたコスチュームはとうに着られなくなったものの、未だ捨てられずにクローゼットの中にいる。

 

小さな頃の私にとって、優しくて可愛くてとても強い、魅力に満ち溢れた彼女らがすべてだった。

なりきりごっこで何度も友達とセーラー戦士になった。別の友達とはセーラー戦士の人形で夕方まで遊び続けた。

私の成長は、彼女らと共にあった。

 

しかし、子どもの趣味には終わりが来る。

決してきっかけがあったわけではない。ただなんとなく、飽きてゆくのだ。小学生も中頃になると私の趣味は絵を描いたりゲームをしたり、そういうものへとシフトしていった。それでも自由帳には下手っぴなセーラー戦士たちが並び、ゲームボーイのソフトにだってセーラームーンがいたけれど、過去に比べれば私の熱意は落ち着いていった。きっと、そういう頃にニチアサも観なくなったのだろう。

 

その後私は深夜アニメにハマり、ゲームに没頭し、所謂「ヲタク」として成長していった。涼宮ハルヒの憂鬱とか、ローゼンメイデンとか、あの時代のアニメは私のヲタク人生の中でもなかなかに根強い。

ただしどんな作品にはまっても、私の好きなアニメのすべての根源にあるのは、決まって「美少女戦士セーラームーン」だった。

カラオケでは頻繁にムーンライト伝説を歌い、ビデオからDVDへと移行したレンタル作品をたびたび自分で借りに行った。すると昔は気付かなかった良さが見えてきて、それもなかなかに面白かった。無印の最終回や劇場版Rで号泣し、昔に比べて外部系戦士をとても好きになった。(昔に観た時の彼女らはどこか怖いイメージがあった。特にS時代)

 

そして、ある時ふと気付く。

いつの間にか私は、彼女らと同じ年になっていた。

 

ビジュアルを客観的に見ると到底信じ難いのだが、彼女らの物語は中学2年生から始まる。だから幼い頃から私のイメージする中学生とは彼女らのように可愛く、美しく、そして輝いて見えるばかりの姿だった。

それがどういうことだろう。中学生活を折り返していた私が彼女らと同世代だという事実に気付いた時、私はとてつもなく絶望した。テレビの中で見た中学校生活など、此処にはなかったからだ。

私の中学校生活は簡潔にいえば「最悪」の二文字で表す事ができ、現在に至っても記憶から消し去りたい時代の首位を堂々と飾っている。ただし今も仲の良い親友たちは大体この時代に出来たので、消すに消せない。もしこの人生を繰り返すとしても、私はあの学校に入学しただろう。

まあまあまあ、そんな事は置いといて。

仲のいい親友は出来たがそれ以外の学生生活において「辛い」と「苦しい」しか口から出なかった私は、およそ彼女らと同じ中学生とは思えなかった。

 

現実が虚構を追い抜き、壊していく。

それはとても残念であり、寂しかった。

その年になればきっと自分にも画面の向こう側のような生活が待っていると、小さな頃の私は信じていた。

しかし、幾ら待ったところで私は道端でいじめられている猫を見付けた事もなく、当然の事ながら世界を救う命運を背負う事もなかったわけだ。

 

それから何年も経って、私は次々と虚構を追い抜いていく。

クラスの中で殺し合いが起こる事はなく、高校生になっても非日常はやって来なかったし、仲の良い親友たちとは全員別の大学へ進学した。

今や私は彼ら彼女らより随分と年の離れた大人になってしまったわけだが、虚構である彼ら彼女らは大体の場合で同じ容姿のままそこにいる。そして、とても楽しそうだ。

この年になって幼稚な話かもしれないが、なんとなく、少し、羨ましい。

 

私は今年もまた無難に歳をとる。

憧れのセーラー戦士達の青春をテレビに流しながら、彼女らの生き様の輝かしさに寂しさと、そして元気を貰っている。

ちなみに私が一番好きな二次元のキャラクターは35歳なのだが、その歳を追い越してまう頃にはどうなっているのだろうか。何か少しでも自分の人生に輝きを見つけられていたら良いなと、そう思う。

セーラー戦士にはなれなかったけれど、それくらいで良いじゃないかと、そう思えるようになっている。